コラム  2020.04.02

小林秀雄の呪縛

林 文夫

 以前はわからなかったのに、年齢を重ねるとわかってくることがある。

 ビールの味は、大人になるまでわからない。修学旅行では記憶に残らなかった京都の庭が、再訪時に深い印象を残す。私の最近の収穫は、成瀬巳喜男の映画のしみじみとした味を楽しめるようになったことだろうか。人生の進化を実感する。

 高校時代に教科書で、小林秀雄の『無常ということ』を読んだ。現代人は常なるものを失った、というあの文章だ。近代日本の散文中最高の達成(新潮文庫版の裏表紙による)とされるこの作品を読んでも、私には全くわからなかった。小林秀雄が出ませんようにと念じて大学入試に臨んだのをまだ覚えている。

 自分には歯が立たない文学が世の中に存在するという事実は、私の意識のなかで大きな負い目として残った。

 大学院では学術論文の読み方の訓練を受けた。その後は学者としての経歴を積んだ。査読者として、数えきれない内外の論文の評価をした。学術雑誌の編集長として、投稿されてきた論文のどれを掲載するかを決めた。

 学術論文の「目利き」としてのこのような経験を積んだ今なら、分野は違うにせよ小林 秀雄もわかるかもしれない。そういう希望的観測のもと、『無常ということ』を再読した。

 たしかに高校時代とは違い、この難解な文章の一応の要約はできる。人間は生きている間は、しっかりとした動じないものを持たない一種の動物である。これが彼のいう「無常」だ。上手に歴史を思い出すことにより、無常から脱することができるが、歴史を解釈の対象にしようとする現代人にはこれは難しい。

 しかし、読後の「なるほど感」はない。彼によれば私の人生も無常という動物的状態だが、進化する私の無常のどこが悪いの、と言いたくなる。

 さらに不遜を承知で言わせてもらえば、彼に時代的普遍性があるか疑問だ。現代人の歴史との関係は、唯物史観が支配的な歴史解釈だった時代とは違うのではないか。NHK 大河ドラマの番組の締めくくりは、旧跡となった歴史舞台の映像である。それはまさに「しっかりとした動じないもの」に私には見え、感慨深い。番組本体で動物的状態にある人間が描写された後だけになおさらだ。現代の日本人は、大河ドラマで、唯物史観に邪魔されることなく「上手に歴史を思い出す」ことをしているのではないか。

 小林秀雄全集を読破すれば、これらの疑問は氷解するのかもしれない。しかし人生の収穫期に入った私としては、そういう投資をする時間があるのなら、その時間を今まで知らなかった楽しみの収穫のために使いたい。

 年齢を重ねることのもう一つの利点は、「損切り」ができることだ。今だから言える。私は小林秀雄がわからない。

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北鎌倉・東慶寺の小林秀雄の墓(著者撮影)


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