コラム  2018.12.03

いざ新時代へ

堀井 昭成

 1989年1月、平成の世が始まった。同年6月、北京では天安門事件が起き中国民主化の動きが封殺された一方、ポーランドでは自由選挙によって非共産党政権が発足した。その僅か数ヵ月後、多くの東ドイツ国民がハンガリー、オーストリアを経由して西側へ出国し始め、11月には東西ベルリンを四半世紀以上も分断していた壁が崩壊した。12月にはマルタ島で米ロ首脳会談が開かれ、冷戦の終結が宣言された。それは、今日まで続く情報と経済のグローバリゼーションの始まりであった。

 冷戦終結から1ヶ月して、東京株式市場では株価が急落し、続いて、長く上昇神話のあった不動産価格も下落した。バブル崩壊だ。グローバリゼーションとバブル崩壊後の金融不安定化への対応に、日本経済と政治は平成時代の過半を費やすことになる。平成が始まったばかりの1989年1月に、その後日本と世界に起こる歴史的大転換を予想した人はほとんどいなかった。

 因みに、ベルリンの壁が崩壊する数ヶ月前にサッチャー英国首相がモスクワを訪れてゴルバチョフソ連共産党書記長に対して、英国はドイツの統一を望まず、またソ連が自国の安全保障に必要な手をうつのを理解すると伝えている。2009年に明らかになった文書には、そのとき彼女が速記を止めたため速記者がその後記憶に基づき改めて記録したものであるとの注釈まで付いている。熟練の政治家の予想を超えて事態が急展開したこととともに、記録に関する旧ソ連の官僚魂をも物語るエピソードである。

 明治、大正、昭和の始まりをみても、それぞれ歴史的な転換点ないしは屈曲点にあたる。明治改元後約半年、1年でアメリカ大陸横断鉄道とスエズ運河がそれぞれ開通するなど、当時のグローバリゼーションが加速した。またその前後にはドイツ、イタリアで国民国家が成立した。日本が国民国家になった動きと重なる。

 大正改元の2年後には第1次世界大戦が勃発し、その戦後ベルサイユ体制のもとで日本は世界5大国の一角を占める。大正デモクラシーと経済不況が同時に進行する短い年月を経て1926年には、昭和と改元される。そして、その数ヵ月後に昭和金融恐慌と南京事件が起こった。もちろん、いずれもその背景は大正時代に用意されたものだが、顕在化したのは昭和改元直後だった。

 経済現象が、たとえ基礎的条件が整っていても直ちには発現せず、何らかのきっかけをまってから発現することがしばしばある。10年前の世界金融危機についても、その原因となる与信の膨張はグリーンスパンFRB議長のもとで進んでいたが、バブル崩壊はバーナンキ議長就任の数ヵ月後だった。

 もちろん、平成への改元と日本のバブル崩壊、FRB議長の交代とアメリカのバブル崩壊の間に因果関係はない。しかし、無関係なことが転換点と往々にして符合するという意味で、歴史は皮肉なものかもしれない。新しい年号のもと、予想を超えて歴史が急展開する可能性を頭の片隅において、そして急展開時こそリスクもチャンスも大きいと肝に銘じて、新時代の幕開けにのぞみたい。


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