コラム  2013.12.11

金言の重み

堀井 昭成

 2007年夏に金融危機が表面化して既に6年になる。この間、危機の再発防止を巡って国際的に議論がなされてきた。そのなかには私の理解しがたいことが少なくない。古くから習ってきた金融の常識に反しているからだ。

 まず金融政策の役割について、金融危機以前は、物価安定に的を絞るべきだという考えが主流であった。最近でこそ異論も聞かれるが、欧米では依然主流の考え方だ。しかし、中央銀行界には古い金言がある。The central bank is the guardian of the integrity of money=「中央銀行は通貨の無欠性を守るもの」。通貨が欠陥なく機能するには、物価の安定のみならず、決済システムの円滑な機能や銀行等の健全性がなければならない。偽札が横行し為替送金が不安定であれば、いくら物価が安定していても、通貨は十分な機能を果たさない。資産バブルが金融の不均衡と不安定を伴うのであれば、これを埒外に置くのは間違いのはずだ。

 金融政策の運営についても、Bill Martin FRB議長のthe role of the central bank is to take away the punch bowl just when the party gets going=「中銀の役割は、宴たけなわになってきた頃合いに酒をさげること」は、1970年代から有名な至言だ。しかし、2000年代には軽視され、インフレリスクが差し迫っていない限りゆっくり政策を調整することが正当とみなされるようになった。

 2008年の金融危機時に公的資金によって欧米の金融機関が救済されたが、これに対する欧米国民の怒りを背景に、金融監督体制も大きく見直された。例えば、金融システム上重要な金融機関(SIFIs)を特定し、より厳しい自己資本比率規制のもとに置くことになった。世界的に重要な銀行(G-SIFIs)が具体的に指名され、さらに米国では、銀行のみならず、他の金融機関も指名されつつある。しかし、このようにSIFIsが指名されると、これらが実際に危機に直面すると公的救済がなされるものと、一般には想像されるだろう。

 一昔前には、金融機関が危機に陥った際に中央銀行が特別融資によって救済することに関してconstructive ambiguity=「建設的曖昧さ」が大事と言われた。事前に救済されると分かった場合は、金融機関の自助努力が鈍るおそれがあるから、中銀は誰を助けるとか、どんな場合なら助けるとは言わない大原則である。そもそも中央銀行の平時の資金供給に関しても、FRBにこんな言葉があった。Borrowing at the central bank is not a right of borrowers but a privilege =「中銀借入は借り手の当然の権利ではなく特別の権利」。貸し手が借り手を選ぶのは当たり前という訳だ。

 さて、金融を巡る昨今の動きは、当局者の裁量の範囲を狭め政策のルール化を進めるもの。それが金言を超えて金融の機能向上につながるのか、オールドファッションの私には疑問だ。近年の失敗は金言の誤りにではなく、その軽視に起因している。



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