コラム  エネルギー・環境  2021.01.15

江戸東京野菜のイノベーション

エネルギー・環境

江戸と東京の野菜は地産地消で新鮮かつ美味であるとして、江戸東京野菜としてブランディングされている。その活動の一環で、江戸と東京の野菜の歴史について詳しくまとめた膨大な資料があって、これがじつに面白い。さまざまな読み方があると思うが、筆者は専門であるイノベーションと地球環境の観点から切ってみた。胸躍る物語を紹介しよう。

幕府が開かれると江戸は大発展し、人口は100万人と当時世界最大規模の都市になった。全国から参勤交代で武士が来て、江戸城を取り囲み武家屋敷を建て、商人や職人も集まった。巨大な消費都市の誕生であり、この「市場の力」が江戸の野菜イノベーションをもたらした。

参勤交代の武士のみならず、全国を又にかけて活動する篤農家や商人が、津々浦々の作物の情報を仕入れ、その種を交易し、それぞれの土地で育成を試みた。江戸幕府が開設されたことで、日本全体でアイデアが交換されるようになり、イノベーションが進んだ訳だ。今風にいえばグローバリゼーションの波が全国の農業に押し寄せたのだ。物流を支えたインフラは、中山道などの街道や、千葉県銚子から利根川を経て江戸中に巡らされた水運網であった。

種は新しい土地に撒かれ、土壌に合うものが選抜されて、栽培されるようになった。湿地帯では足立のセリや葛西のレンコンが栽培された。現在の北区・滝野川付近では、水はけのよい黒土の台地で長さが1メートルに達するニンジンが育てられた。

作柄のよいものが選抜されてその種が撒かれる、ということが繰り返され、各々の土地にあった名産品が育成された。練馬のダイコン、茗荷谷のミョウガ、谷中のショウガ、現在の江戸川区小松川の小松菜などだ。農家による飽くなき品種改良が続けられた。マーケットに鍛えられる中で試行錯誤を繰り返す、というイノベーションの原型がそこにあった。

幸運な偶然(=セレンディピティと言われる)も作用した[1]。これもイノベーションに典型的なことだ。徳川吉宗の時世、尾張からダイコンを取り寄せて練馬に植えると良いものが出来て、名産品になった。だがじつはこれは尾張のダイコンとは別物になってしまっていた。現地のものと偶々交雑した結果、いっそう良いものになったと推測されている。

また関西のネギを関東の品川で植えたら気候が合わずに地上の青い部分が枯れてしまった。だが地下の白い部分を食べてみたら美味かったので、そこを売り物にすることにした。このような経緯で、いまでも関西は青いネギを食べるのに、関東では白いネギを食べることになったとか。何処まで本当か分からないエピソードに彩られているところもイノベーションの物語に良くあることだ。 

さてせっかくの名産品になっても市場の力に負けると消滅する。マクワウリは水菓子として将軍にも献上されていた。だが江戸が東京になってメロンなどが市場に出てくると駆逐されてしまった。将軍が今のメロンを食べたらその甘さに腰を抜かしたことだろう。秋になると都内には禅寺丸という柿がたくさん実るが誰も食べない。勿論江戸時代には人が食していた。だが実は小さく種が大きいので、その後に出現した品種に負けて、今では収穫すらされなくなり、カラスの餌になっている始末だ。ハクサイに似た三河島菜は愛知県の三河から移住した人々が育てた名産品だったが、ハクサイの栽培が確立されると競争に負けて消滅してしまった。そして、無数の江戸の名産品が、宅地や工場が建てられて消滅し、その地位を他の地方に譲り渡したことは、いまからすると残念なことである。

飽くなき品種改良によって、野菜は種類が増え、病害虫に強くなり、美味しくなった。同じ名前で呼ばれる作物であっても、品種改良によって時間と共に実体としては別の種になっていった。小松菜は、従前は葛西菜と呼ばれていたものを、徳川吉宗が小松菜と命名したと言われ、その後一貫して同じ名前で呼ばれてきた。だがじつは形状は随分変わっており、味も変わってきたと見られている。ちなみに最近の小松菜はチンゲン菜と掛け合わされたものをスーパーで売っているそうだ。道理で、いまの小松菜は、茎は真っ直ぐで甘い訳である。小松菜というと、苦くて子供の頃は好きでなかった記憶があるが、あの味と今の味は違うということだ。

江戸時代は気候学では小氷期と呼ばれるほどの寒い時期だった。当時の浮世絵を見ると今ではちょっと考えられないぐらいの大雪が関東地方でも降っていたようだ。その後東京は暖かくなった。幕末に比べると地球全体が温暖化したがこれは僅かに1度弱である。東京では都市化によって更に2度程上がり、都合3度も高くなっている[2]。以上は平均気温の話だが、冬の最低気温はもっと上がっている。東京の通年の最低気温は今ではせいぜいマイナス2度ぐらいだが、昔はマイナス7度とかマイナス9度まで下がることも多かった。幕末に比べて平均で3度、年最低気温で言うと5度か7度ぐらいの急激な温暖化があった訳だ[3]

ではこの「温暖化」で東京の農業に何が起きたか? 甚大な被害があったなどということは全く聞かない。温暖化が起きたのは事実であろうが、記録が残っているのは、縷々述べたように、ひたすら市場の力に導かれたイノベーションの連鎖である。気温上昇への「適応」は、この過程で、無意識のうちになされていたと推察できる。というのは、品種を育成する過程では、よく育つものを集めてその種を撒くということを繰り返すのだが、このとき、気温が高くなってゆくならば、それに歩調を合わせて遺伝的に高い気温のもとでよく育つ作物の種が残ってゆくからだ。

ついでに言うと幕末に比べてCO2の濃度は1.5倍になっているが、これによって光合成が活発になり、作物はかなりの恩恵を受けているはずだ。のみならず、気温上昇への適応と同様な経緯で、高いCO2濃度の恩恵をより強く受けるように作物自身も品種改良されてきたに違いない。無論、農家はCO2の増加など全く意識していなかったと思うけれども。

江戸時代の農民はしたたかであり、気候対して単に「従う」だけではなかった。むしろ積極的に気候に「逆らった」。新しい土地に作物を導入するたびに、そこの気候や土壌に合うように、品種改良が続けられた。キャベツは当初江戸では生産出来なかったが、明治時代になって葛飾の篤農家中野藤助が育成に成功した。農家は栽培の時期も変えた。これには年を通して畑を有効に利用したいという思惑もあったが、それよりも、高値で売れる時期に出荷をしたかったからだ。

特に江戸っ子は「初物(はつもの)」が大好きだったので、農家は1日でも早く先駆けて市場に作物を出すべく競った。品種改良のみならず、加温して生育を早める促成栽培まで行われた。無論、当時はガラスやビニールの温室も石油ボイラも無い。だからムシロで囲いや覆いをして、堆肥を敷いて発酵熱で加温した。更には油を浸した障子紙で覆い、炭火で加温までした。これで夏野菜であるナス、ウリ、インゲンを冬に出荷したというから、すごい執念だ。初物があまりにも高い値段で売れるので、これは贅沢だ、無駄遣いだとして、江戸幕府は倹約令を出して何度も禁止している。だが何度も禁止しているということからも分かるように、要は全然効き目は無かったようだ。

江戸時代の食事は大名でも一汁一菜かせいぜい一汁二菜、それもカロリーの78割は白米で、あとはダイコンや小松菜などの野菜と豆腐などで、魚は高価だったという。何品もある本膳料理は特別な日だけのもので、普段の食事は簡素なものだった。それでも初物ということに異様な執念を燃やすあたり、「カスタマーエクスペアリンス(顧客体験)」「物語性」を高めよと言っている現代のマーケティング戦略を遥か昔に先取りしている。

参考資料

江戸東京野菜のイノベ―ションに関する情報は1~3に詳しく書いてある。本稿で紹介したエピソードはその一部に過ぎない。いつか体系的にまとめてみたい。無料で閲覧できる情報としては6,7がある。

  1. 江戸・東京 農業名所めぐり、企画・発行 JA東京中央会、発売 社団法人 農山漁村文化協会、2002
  2. 江戸東京野菜 物語編、大竹道茂、農文協、2009
  3. 江戸東京野菜 図鑑編、大竹道茂、農文協、2009
  4. 江戸東京野菜、佐藤勝彦、マガジンランド、2014
  5. 小松菜と江戸の御鷹狩り――江戸の野菜物語、亀井千歩子、彩流社、2008
  6. 江戸東京野菜通信、大竹道茂、
  7. JA東京中央会ホームページ 江戸東京野菜について

[1] イノベーションにおけるセレンディピティについては、拙稿

[2] 東京のヒートアイランドによる気温上昇については、拙稿

[3] 東京の年最低気温が大幅に上昇したことについては、拙稿