論文  財政・社会保障制度  2015.11.13

財政再建への道のりーどん底からどのように抜け出したのか<青森県大鰐町:危うく失いかけたスキーと温泉文化>

『地方財務』(株式会社ぎょうせい)2015年11月号に掲載

はじめに

 7回目は青森県大鰐町を取り上げる。大鰐町は、青森県津軽地方の南端に位置し、北と西は弘前市、東は平川市、南は秋田県に接しており、豊かな自然に恵まれた、「スキーと温泉の町」である。
 大鰐温泉スキー場は100年の歴史をもち、全日本スキー連盟発祥の地でもある。日本で初めてスキーが行われたのは、明治44(1911)年である。新潟県高田市でオーストリアから来訪したレルヒ少佐が4名の陸軍の将校たちに1本ストックのオーストリア式の講習会を開いたことによる。その4名の1人が大鰐町出身の弘前第八師団所属の将校である油川貞策であった。大鰐の青年団が、阿闍羅山にスキー場を造り温泉と一緒に売り出そうと油川氏に働き掛け、大正11(1922)年末にスキー揚が完成した。そして、大正13(1924)年には第三回全日本スキー大会が開かれ、昭和3(1928)年に第一回インターカレッジスキー選手権大会、その後4回にわたる冬季国体の会場になり、国内有数のスキー場として名を馳せている。平成15年には冬季アジア競技大会も開催された。
 一方、大鰐温泉は800年もの歴史がある。大鰐温泉は円智上人により建久年間(1190~1198年)に発見されたと伝えられている。史実に現れるのは、慶安2(1649)年に三代藩主の津軽信義が大鰐に御仮屋を設け湯治したという記録で、それ以来、湯の管理人「湯聖」が置かれるようになった。そして、明治28(1895)年には奥羽本線大鰐駅が開業したことから温泉場は大勢の湯治客で賑わいをみせた。太宰治の『津軽』の中にも大鰐温泉の記述が見られる。
 このように、大鰐のスキーと温泉には素晴らしい歴史があり、大鰐町にとって重要な資源である。しかし、そのスキーと温泉が起因となって大鰐町の財政難が引き起こされた。
 大鰐町は平成20 年度決算で将来負担比率が392.6%と早期健全化基準の350%以上となり、早期健全化団体となった。将来負担比率の悪化の主要因は、2つの第三セクターの「財団法人大鰐町開発公社(以下、開発公社という)」と「大鰐地域総合開発株式会社(以下、OSKという)」が抱えていた負債に対する損失補償見込額62.7億円であった。開発公社とOSKは、大鰐温泉スキー場第二スキー場(以下、高原エリアという)や温泉施設「スパガーデン湯~とぴあ(以下、湯~とぴあという)」、大鰐町都市公園(以下、あじゃら公園という)の開発などの大規模観光事業の資金が経営不振により、不良債権化した。また、平成20年度の大鰐町土地開発公社の債務に対する町負担見込額が5.8 億円であることもあげられる。
 さらに、地方公営企業においても、休養施設事業特別会計(国民宿舎おおわに山荘)の資金不足比率が316.1%(資金不足額3.3億円)と、温泉事業特別会計(温泉供給事業)の資金不足比率が1441.8%(資金不足額2.5億円)と経営健全化基準の20%以上となったため、経営健全化計画の策定が義務付けられた。
 経営健全化計画のもと、大鰐町はOSKと開発公社を清算し、休養施設事業特別会計を廃止することで、高原エリアとおおわに山荘を休止した。大幅な人件費の削減、固定資産税率の引上げ(1.4%→1.6%)、家庭ごみ収集の有料化、施設管理等の見直しも行い、温泉使用料も引き上げることとし、平成26年度をもって早期健全化団体から脱却した。バブル崩壊以降、長年、大鰐町を苦しめていた第三セクターなど負の遺産を整理することができた。
 本稿では、大切な資源であるスキーと温泉が原因で財政難に陥った大鰐町の財政再建の取り組みについて検討する。...


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青森県大鰐町:危うく失いかけたスキーと温泉文化