コラム  国際交流  2015.04.01

「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第72号(2015年4月)

小誌は大量の資料を網羅的かつ詳細に報告するものではない-筆者が接した情報や文献を①マクロ経済、②資源・エネルギー、環境、③外交・安全保障の分野に関し整理したものである。紙面や時間の制約に加えて筆者の限られた能力という問題は有るが、小誌が少しでも役立つことを心から願っている。

 国家であれ個人であれ、相手の心の中を外から読み解くことは、まことに難しい。こうした理由から、相手の心中を探る方策に関し、米国の研究者が体系的に論じた著書(Karen Yarhi-milo, Knowing the Adversary: Leaders, Intelligence, and Assessment of Intentions, 2014)や北欧の研究所(SIPRI)が対中武器輸出に関し、西側諸国の間に存在する対中姿勢の微妙な差を記した報告書("Western Arms Exports to China," 2015、小誌前号の2参照)は興味深い。

 戦後70年を迎え、敗戦直後に服毒自殺した近衛文麿公の遺文(『平和への努力』)を読み、彼の心中を考えあぐねている。若い頃の著作(「英米本位の平和を排す」や『戦後欧米見聞録』)を読むと、ShawやWilde等の英国的教養を具えた彼の卓越した洞察力が窺(うかが)える--①ヴェルサイユ会議における米国調査団(ハウス大佐率いる"The Inquiry")の海外動向分析能力に感銘を受けて、自らも将来はbrain trust(「昭和研究会」)を創る意欲を示し、②抬頭するpublic diplomacyに伴う宣伝(propaganda)の重要性を悟って、米国の雑誌(Life)の取材にも快く応え、更には③海外での日本の評価が低い理由は「商用以外に広く一般人士と交際するが如きは滅多にこれ無きが故」と、海外の優れた人々との知的交流を強調した。しかし、遺文を読むと、太平洋戦争直前の近衛公の言動は、若い頃の考えとは正反対だ--即ち①優れた人々(含「昭和研究会」)の意見を聞かず、②対外宣伝は反日感情を煽ることとなり、③英米のみならず、自らが締結した三国同盟の首脳とも知的交流を行なわなかった。

 近衛公は平和を念頭に(?)英米と対峙する"日独ソ伊の提携"を唱えたが、「獨蘇戰爭の勃發によりて日獨蘇連携の望は絶たれ」たが故に、1941年夏、日本外交は突然危険になったと記している。だが、戦史に詳しい方はご存知の通り、ドイツの対ソ作戦は対仏戦勝時(1940年6月22日)、既に準備段階に入っていた--①6月26日、西部戦線で奮戦した第十八軍は東方への移動を開始し、②第2次近衛内閣成立の前日(7月21日)、ヒトラー総統が対ソ戦を仄(ほの)めかし、③三国同盟調印(9月27日)後、3ヵ月も満たない12月18日、対ソ作戦「指令第21号 (Weisung Nr. 21: „Fall Barbarossa")」が発令された。そして④東京で大本営政府連絡会議が「日独伊ソ協商」推進を承認した1941年2月3日、同盟国のドイツでは、ヒトラーが「バルバロッサ作戦で世界は息を呑むであろう(Die Welt werde den Atem anhalten, wenn die Operation 'Barbarossa' durchgeführt werde.)」と対ソ戦勝の夢に糠(ぬか)喜びしている。

 勿論、情報収集・情勢判断に関して近衛公だけを責めていない。日独軍部間にも連繋が殆ど無かったのだ。独陸軍参謀総長ハルダー将軍は、山下奉文陸軍中将率いる「山下使節団」と1941年1月27日午前10時に面談後、正午から独ソ戦の作戦会議に入ったと日記(Kriegstagebuch)に記した。即ち日独軍部間には"真"の会話は全く存在していなかったのだ。他方、1月29日に米英加3ヵ国(ABC)の軍部が「参謀協定」合意に向けて、米国で2ヵ月に及ぶ対話を始めた事を"事後的"に知り得た筆者としては、深い溜息をつかざるをえない。

 筒井清忠氏の著書(『近衛文麿 教養主義的ポピュリストの悲劇』 2009)によれば、近衛公最期の時、机上のWildeの本(De Profundis)には下線が引かれていた--「世間が私に対し行った事は恐ろしい事だが、私が自らに対し行った事は更に恐ろしい事(Terrible as was what the world did to me, what I did to myself was far more terrible still.)」、と。だが、恐ろしい事を経験したのは近衛公だけでなく、戦中・戦後の全世界の人々ではないだろうか。


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「東京=ケンブリッジ・ガゼット:グローバル戦略編」第72号(2015年4月)