メディア掲載  グローバルエコノミー  2012.11.06

続・TPP交渉は今どうなっているのか?~「おばけ」は消えた~

WEBRONZA に掲載(2012年10月17日付)

 TPPによって、公的医療保険制度が改変させられる(混合診療が認められる)とか、単純労働者の受入れや労働基準の引き下げをせまられるとか、という主張が強く行われた。これに対して、民主党の前原誠司政調会長(当時)は昨年10月、「慎重論の中には事実に基づいた不安感と同時に、事実ではない事への恐怖感がある。これを私は『TPPおばけ』と言っている」と述べて、物議をかもした。しかし、この指摘は本質を突いている。「事実に基づいた不安感」におののいているのは、農協等の農業界であり、「事実ではない事への恐怖感」を抱いているのは、日本医師会などだろう。
 『TPPおばけ』は反対派によって巧妙に利用された。医療制度などによって守られている既得権益グループは、既得権が侵害されることに恐怖を感じるからである。民主党内でTPPのとりまとめに当たった、大野元裕参議院議員によれば、次のような議論が、反対派の議員と政府の間で交わされたという。
 「(反対派が主張したものの一つに)『情報がない』という議論があります。私もかつては外務省にいましたので、ガット・東京ラウンド、あるいはウルグァイ・ラウンドに比べても、百倍くらい今は情報があると思います。しかし例えば『この市場を開いた場合、ここに労働力が入ってこないのか』というと、役所の人は『これまで日本が各国と結んだ二国間のさまざまな貿易協定に従えば、そういったことを要求されたことはありません』とか、『今のTPP参加国との間で締結されたものの中では、そういった懸念はありません』という説明をします。しかし『それは小さな国、例えばシンガポールとの話であって、絶対入ってこないのか』というと、役所は『そういう可能性はないとは言えない』というコメントをします。『ないとは言えない』となると、日本の交渉力から考えれば『やられるんじゃないか』と、『アメリカ悪者論』に戻ってしまう。」
 これまで二国間協議で無理難題を要求されたアメリカに何が突きつけられるかわからないという不安に、反対派はうまく付け込んだのである。
 しかし、これまで二国間協議でアメリカから一方的に要求されてきたことが、TPPでも要求されわけではない。それは、二国間協議と違って、TPPは協定という法的なものだからだ。
 公的医療保険制度の見直しをアメリカは二国間協議で要求したかもしれないが、公的医療保険のような政府によるサービスは、WTOサービス交渉の定義から外れており、自由貿易協定交渉でも対象になったことはない。自由貿易協定の一種であるTPPの法的な枠組みに載ってこないものは、いくら二国間協議で要求されたとしても、TPP交渉で対象となりようがない。カトラー米国通商代表補が、2012年3月東京で行われた講演で、混合診療や営利企業の医療参入を含め、TPPで公的医療保険は取り上げないと述べたのは当たり前のことなのである。
 また、TPPのみならず多国間の協定では参加国全てが共通の義務を負うので、アメリカが日本に要求したことは、アメリカ自身にも跳ね返ってくる。協定が持つ双務性、相互主義性である。日米の二国間協議でアメリカが一方的に日本に要求するという場合とは、状況が異なるのだ。
 さらに、「おばけ」には、そもそもアメリカが要求するはずのないものまで含まれていた。単純労働者の受入れや労働基準の引下げである。
 アメリカでは、労働や環境の基準が低い途上国から安い産品の輸入が行なわれることを、ソーシャル・ダンピング、あるいはエコ・ダンピングと言って非難する。ソーシャル・ダンピングとは、途上国において、低賃金、児童労働や劣悪な労働環境を利用して企業がコストを削減し競争力を確保しようとすることは不当だとして、先進国並みの労働基準の遵守を求める主張である。
 NAFTAはアメリカ連邦議会の承認が難航した。アメリカより労働や環境の基準が低いメキシコから安い品物が大量に輸入され、アメリカの産業や勤労者に大きな被害を与えかねないと主張されたからである。アメリカ政府は、カナダ、メキシコと再交渉して、労働と環境に関する補完協定を結ぶことで、ようやく議会承認にこぎつけた。
 今回アメリカが、労働や環境について特別な章をTPPに盛り込むよう主張している理由も同じである。アメリカは途上国の労働基準の引上げを要求しているのである。日本のTPP反対論者が言っているような労働水準の引下げをアメリカ政府が画策すれば、加盟国が共通の義務を負うというTPPという協定の性格から、アメリカの労働基準も低下し、アメリカ最大の利益団体として民主党政権を支えている労働組合だけではなく、アメリカ国民からも猛反発を受けることになる。また、日本の労働コストが安くなって、日本の工業製品の輸出競争力が高まるようなことを、アメリカの労働組合が受け入れるはずがない。
 同様の理由から、アメリカが単純労働者を受け入れるはずがない。カトラーは単純労働者だけでなく、医師や弁護士の相互承認もTPP交渉の対象ではないと明確に否定した。
 TPP交渉の現状はどうなっているのだろうか?交渉開始から2年以上経過し、各国の交渉提案は既に出揃っている。これ以上、新しいテーマや分野の提案は行われない。これまでも、公的医療保険や単純労働者の受入れ等は、どの国も議論したり、提案したりしようとはしなかった。これからも、TPPで取り上げられることはない。「TPPおばけ」は跡形もなく消えたのである。しかし、前原氏のいう「事実に基づいた不安感」に悩まされる業界は、反対を続ける。これは「おばけ」ではないからだ。